先輩を見た。
「あの．．．いいんですか？」
思わず声を低めた。
先輩が私を見る。
「．．．警備上は、問題ないわ。」
「．．．」
思わず、先輩の顔を見つめた。
「そういう問題じゃないのは分かってるけど．．．」
「．．．」
先輩が前を向き、視線を落とす。
「時々声をかけるようにするわ。」
「．．．」
「よかったら、声をかけてあげて。」
「．．．はい。」
列車が動き出した。

「ちょっと、トイレに行ってきます。」
立ち上がりながら、先輩に声をかけた。
「私も行こうかな。」
先輩が立ち上がろうとする。
「はい。」
先輩に微笑んだ。
後ろの座席を見ると、レイが外を見ていた。

トイレから出ると、先輩が洗面所にいた。
「先輩？」
そう言って、鏡を覗き込む。
「マヤ。」
先輩が微笑む。
「ちょっと、直さないと駄目かな。」
鏡を見ながら、思わず呟いた。
「少し暑かったから。」
先輩が、パウダーをはたいている。
「そうですね。」
ポーチから油取り紙を取り出した。

「いい？」
先輩が、カーテンの向こうから問う。
「もうちょっと。」
ルージュを唇から離して答えた。
「了解。」
ちょっと呆れたような声。
上唇の右側にルージュを滑らせて、下唇と合わせ、鏡に微笑む。
「よし。」
ルージュをポーチに戻して、振り返り、カーテンをくぐった。
「お待たせしました。」
先輩に微笑んだ。
「お待ちしてました。」
先輩が微笑む。
歩き出す先輩に手を伸ばし、手をつないだ。
自然に笑みがこぼれる。
「どうしたの？」
先輩が不思議そうに私を見る。
「なんとなく．．．」
そう言って先輩に微笑んだ。
「そう。」
先輩が微笑んだ。

レイの座席の脇に来た。
レイが窓の外を見ている。
「レイ？」
レイに声をかけた。
「はい。」
レイが私の方を見る。
「隣、いい？」
「ええ。」
レイが視線を外に移した。

レイが窓の外を見ている。
レイを見ていた。
しばらくして、窓の外を見るようになった。
明るい緑を基調とした田園風景に、時折家並みが流れ、遠くには連なった山々が動いていく。
レイは、身じろぎもせずに、それを見ていた。
「なんだか眠くなっちゃった。」
思わず呟いた。
正面を向いて、背もたれに体を預けた。

「．．．い．．．．伊吹二尉。」
体が揺れている。
「ん．．．」
目を開けると、レイが私を見ていた。
「あ．．．寝ちゃったんだ。」
思わず呟いた。
「長野です。」
レイが言う。
「うん。ありがとう。」
レイに微笑んだ。
レイが微笑んだような気がした。

席から立ち上がって、通路に出る。
「マヤ。」
先輩が荷物を差し出す。
「あ、すみません。」
荷物を受け取った。
先輩が自分の荷物を降ろしている。
レイは、荷物を持っていた。

「降りましょう？」
先輩が言う。
「「はい。」」
レイと私が答えた。

長野駅の地下道を歩いていく。
「次は、長野電鉄ですか？」
先輩に話し掛けた。
「ええ。」
先輩が前を見たまま答える。
「また、貸切りですか？」
「ええ。」
「そうですか。」

電車に乗り込むと、程なく動き出した。
川を渡ったあたりから、車窓の風景が、急速に畑ばかりになっていく。
小一時間程で、終点の湯田中に着いた。

「ここから車だから。」
先輩が言う。
駅前にハイヤーが止まっていた。
私たちが近づくとドアとトランクが開いて、運転手さんが降りてきた。
「お荷物、お渡しください。」
トランクの前で、運転手さんが手を伸ばす。
先輩が、荷物を渡す。
レイが、荷物を渡す。
私も荷物を渡した。
「乗って。」
先輩が言う。
先輩が助手席に。私たちは、後部座席に乗った。
運転手さんがドアを閉める。
「草津温泉ですね。」
運転手さんが言う。
「はい。」
先輩が言った。
ハイヤーが動き出した。

ハイヤーが、山道を上がって行く。
カーブが一段落したころには、少し涼しくなってきていた。
しばらく平坦な道を走った後、また、カーブが多くなった。
かなり高い所まで来たようだった。
だんだんと高度を下げるようになり、そのうちに宿に着いた。
着いた時には、かなり日が落ちていた。

先輩が請求書にサインしている。
「ありがとうございました。」
ハイヤーが走り去っていった。

「行きましょう？」
そう言って、先輩が、宿の玄関に歩き始める。
先輩の後を歩き始めた。

私たちが中に入っていくと、仲居さんが出てきた。
「いらっしゃいませ。」
「予約した赤木ですけれど。」
先輩が言う。
「赤木様。承っております。どうぞ。」
仲居さんがスリッパを手で示す。
先輩が私たちを見て、うなずく。
靴を脱いで、式台に上がった。
「それでは、ご案内します。」
仲居さんが言った。

「こちらです。奥の菖蒲が大人お二方、手前の紫陽花がお嬢様のお部屋です。」
「レイ。荷物だけ置いて、私たちの部屋に来てくれる？」
「はい。」
そう言って、レイは、部屋に入っていった。
仲居さんが歩いていく。
「それでは、どうぞ。」
仲居さんが、ドアを開けた。

ドアを入ると、前には、またドアがあり、左側に襖があった。
襖は開いていて、部屋の中が見えた。
１２畳の部屋に、テーブルと座椅子、そして座布団が置かれていた。
テーブルには、お茶菓子とポット、そして湯飲みがあった。

「今、お茶を入れますので。」
仲居さんが手早くお茶を入れていく。
お茶が私たちの前に置かれた。
レイが部屋に入ってきて、座布団に腰を下ろす。
レイの前にもお茶が置かれた。

「申し訳ありませんが、宿帳の記入をお願いします。」
仲居さんが紙とボールペンを差し出した。
先輩が私たちの名前、住所、所属を書いていく。

「ありがとうございます。夕食は、何時にいたしましょうか？」
仲居さんが言う。
「今５時半だから、７時でいいかしら？」
先輩が、時計から私たちに視線を移しながら言う。
「温泉に入って．．．そうですね、それがいいと思います。」
「それじゃ、７時でお願いします。」
「かしこまりました。それでは、ごゆっくり。」
仲居さんが部屋から出ていった。
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